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昭和55年に尼崎・尼崎北・尼崎東の3ロータリークラブが、国際ロータリークラブ創立75周年記念事業として大物川緑地に野外能舞台を建設し、ロータリークラブ主催の「大物の浦薪能」を開催しました。
その後、舞台一式を市が寄贈を受けたことから、昭和56年からは市の主催による「尼崎の薪能」として開催。能楽「船弁慶」ゆかりの地、大物の野外能舞台において毎年8月5日に「尼崎の薪能」を開催されております。
義経と静の別れの舞台となった大物の浦は、尼崎市大物町 阪神電車大物駅から南へ300メートルばかり歩いた大物主神社の境内あたりになります。 |
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船弁慶(大物の浦)
文治元年、兄頼朝の疑惑を晴らすために源義経は弁慶以下腹心の家来と共に都を落ちて、尼崎大物の浦から舟で西国へ渡ろうとしていました。
ひとまず宿へ落ち着いた一行でしたが、義経の恋人静御前がお供している事を知った弁慶はこの様な時に似合わないので静を都へ返す様にと進言し、義経も渋々承知します。
使者として訪れた弁慶の言葉を信じられない静御前は義経の元へ。
そこで義経から都に帰る様に言われた静は別れの宴で船出前の慌ただしさの中、悲しみの舞を舞います。
義経の行く末を案じながら不安と別離の悲しさの交差する舞です。
兄頼朝との不和により、都落ちを余儀なくされた義経一行は、尼崎の大物の浦に着きます。
源義経・弁慶・静御前など、ほんの小人数の都落ちであったようです。
大物の浦で義経は、愛妻静御前に都に帰って時節を待つように言い、二人は互いに名残を惜しみあいますが、いつまでもぐずぐず出来ないと判断した弁慶は、即刻船出を決行します。
すると、どうでしょう、雲行きがあやしくなったかと思うと、激しい風がまきおこり、海は大荒れになりました。義経たちに滅ぼされた平家の怨霊たちのたたりです。
先頭を切って襲いかかってくるのは、平家の勇将「平知盛」。
義経は刀を抜いて立ち向かい、弁慶は数珠を揉んで激しく祈ります。
世阿弥の孫の代にあたる観世信光が作った、見ていて楽しいスペクタクル劇です。 |
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